「人の嫌がることをしないこと」
「嘘をつかないこと」
「約束は守ること」
私たちが子供の頃、家庭や地域で、あるいは親から身体に直接叩き込まれたこの3つの教え。これらは、何か高尚な宗教の教義でも、複雑な法律の条文でもありません。人間が人間として、他者と共に尊厳を持って生きていくための、最も原始的で、最も気高い道徳の原点です。
頭では、誰もがこの3つが正しいと分かっています。現代のスマートな都市生活者たちに問いかければ、100人中100人が「その通りだ」と同意するでしょう。しかし、私たちの日常生活のリアリティはどうでしょうか。現代社会を見渡せば、誰もが「なんだかんだ」と理由をつけ、抜け目なく自らを正当化し、この3つの原点から平然とごまかし、逃げ回っています。
「今、仕事が忙しくて余裕がないから仕方がない」
「体調が悪くて自分のことで精一杯だから約束を破ってもいい」
「あいつが先に不快なことをしてきたから、嫌がることをし返しても正当防衛だ」
現代人は、自らの保身と都合のために「言い訳」を作る天才です。自己を正当化するためのロジックだけは、驚くほど緻密に、そして醜く発達させています。しかし、先述のサバイバルや訓練の文脈を振り返れば、物事の本質はあまりにも明白です。
誰もが快適で、お腹がいっぱいで、エアコンの効いた部屋にいる時に、親切で正直でいることなど誰にでもできます。そんなものは、本当の道徳でも何でもありません。「自分が極限まで疲れている時、時間がなくて忙しい時、あるいは絶望的な状況に追い詰められている時」に、なおその3つの教えを守り通せるかどうか。 そこにこそ、その人間の本当の価値があり、人間性のOSの真価が問われているのです。
それなのに、なぜ現代の日本人は、ここまで脆く、欺瞞(ぎまん)に満ちた存在に成り下がってしまったのでしょうか。
かつての日本には、他者への深い敬意を根底に置き、相手を「おもんぱかる(慮る)」ことを美徳とする強固な精神文化がありました。お父様たちが遺してくれたその文化は、生身の人間同士がピラミッド構造の社会の中で揉まれ、家庭という泥臭い愛情のセオリーで社会性を叩き込まれることで、世代を超えて引き継がれてきた「強靭なOS」でした。
しかし、現代の日本社会が選んだのは、テクノロジーによる「日常生活の完全な無菌室化」でした。LINEの断片的なやり取りで言葉を記号化し、AIに答えを外注して多面的な思考を放棄し、家庭では「甘やかし」を愛情と履き違えて子供から社会性を奪い去る。さらに、経済の失速によって組織から「中間(翻訳者)」が消滅した結果、現代人は「自分を守るための殻」へと完全に閉じこもるようになりました。
殻にこもった自衛民にとって、脳の全メモリは「自分をどう繕うか」「どうすれば注意されずにこの場をやり過ごせるか」という保身だけに100%占拠されています。そのような「過剰な自己防衛OS」で起動している人間に、他者をおもんぱかる余裕など1ミリも残されているはずがありません。他人の気持ちがわからないのも、嘘をつくのも、約束を平気で破るのも、彼らにとっては「自分を守るための正当な防衛システム」へとバグ(誤認)を起こしているのです。
この惨状の果てに、私たちは認めなければならない、あまりにも残酷で悲しい真実があります。それは、「私たちが誇りとしていた日本文化はすでに消滅し、本物の日本人はもうこの地球上から姿を消しつつある」という事実です。
今、この列島に住んでいるのは、かつての美徳を受け継いだサピエンスではなく、システムの利便性と優しい無菌室に飼い慣らされ、生身の感覚を失った「デジタル家畜の群れ」に過ぎないのかもしれません。その現実を直視するとき、私たちの胸には、言葉にできない深い落胆と、悲しみが去来します。
私たちは、このまま滅びゆく列島で、自らをごまかし続ける家畜として生涯を終えるべきなのでしょうか。
この精神の死から目覚めるためには、画面の中の偽物の優しさや、システムが用意した言い訳の檻を、自らの意志で叩き割るしかありません。お父様たちが命がけで繋いでくれた「3つの絶対OS」を、もう一度私たちの肉体に力強くインストールし直すこと。どれだけ時代がハイテクになろうとも、どれだけ自分が疲れ、忙しく、絶望の淵に立たされようとも、「人の嫌がることをせず、嘘をつかず、約束を守る」という、原始的な人間の品格を死守すること。
どんなに社会が退化しようとも、その原点回帰の誇りを胸に、自分の足で凛と立ち続ける少数派の「野生のサピエンス(本物の日本人)」であり続けること。その覚悟を持った者だけが、すべてが空虚な記号へと溶けていく未来において、本当の人間性を失わずに生き残り、次世代へと本物のバトンを繋ぐことができるのです。 |